【平成30年度総会・懇親会アルバム】

東進会の総会は2018年6月10日(日)に学士会館にて開催されました。

記念講演は東京大学哲学科前教授で武蔵野大学教授の一ノ瀬徹さん(昭51卒)、第二部は立川志のぽんさん(平7卒)、更に飛び入りで渡辺大輔さん(平11卒)と根木マリサさん(平18卒)によるコラボ演奏でした。
また、今年も懇親会前の総会時の軽食として志ち乃のどら焼き、もりあぐの飲むヨーグルト、参加者全員のお土産といたしまして柴沼醤油の紫峰と昨年にも増した充実した内容となりました。

【平成30年度東進会 記念講演概要】

福島問題と将来への教訓-哲学の視点から-

  一ノ瀬 正樹(昭51卒、武蔵野大学教授・哲学)

 

 福島問題は、あの3.11から七年以上が経ったいまでも、複雑な様相を帯びて私たちの前に立ちはだかっている。すでに起こってしまった被害、そして現在進行中の被害、そして人々の心が引き起こすバイアスや差別など、とても一つの学問だけで解明できない多様な問題系がここに現出している。たしかに、亡くなられた方々を取り返すことはできない。けれども、津波震災そして原発事故、それらは世界中のどこでも、いつでも、起こりうる。だとしたら、この複雑多様な問題に全方位的な角度から立ち向かい、津波震災や原発事故の教訓を学び、それを将来世代へと伝えていくことは私たち世代の責務であろう。私は、哲学の視点から問いを提起し、問題の実相に少しでも迫り、教訓を汲み取っていきたい。 

 

 私が改めて提起したい問いは、福島県の被災者が被った「被害」とは何であり、そうした「被害」の【原因】は何か、という問いである。福島の被災者の方々の「被害」は自明である。津波震災で亡くなった1600人以上の方々や負傷された方々、そして原発事故に巻き込まれた方々、それらを振り返れば、その「被害」が何であるかは明らかではないか。そのように言われるかもしれない。たしかに津波震災の「被害」は明らかである。けれども、原発事故に巻き込まれた「被害」とは果たして何なのだろうか。いわゆる震災関連死のことだろうか。実際、福島県の震災関連死は、直接死をすでに上回り、2100人以上となってしまっている。では、こうした震災関連死というのは、どのような「被害」なのだろうか。この辺りから、混乱が始まる。原発事故によって放射性物質が一定量拡散されてしまった。ならば、原発事故による「被害」とは、放射線被曝による放射線障害なのだろうか。それによって2100人以上の方々が亡くなってしまったのだろうか。けれども、よくよく冷静に考えてみれば、放射線障害によって2100人以上の人々が亡くなってしまったというのは成立しえない理解であることが分かる。福島原発事故は、放射性物質飛散の規模という点で、チェルノブイリ原発事故のおよそ7分の1程度であり、実際に福島県に住み続けている90%以上の方の被曝した実効線量は年間1mSv以下である。放射線障害、とりわけ急性放射線障害などは起こるべくもない。福島原発事故は、放射線被曝という点では、不幸中の幸い、健康影響はほとんど心配のないものであったことが、多くの研究者の方々の調査によるデータから判明している。1999年のJCO臨界事故とはおよそカテゴリーの異なる事故だったのである。

 

 では、なにゆえ2100人以上の方々が亡くなってしまったのか。その【原因】は何なのか。それは果たして不可避だったのか。一旦あのような事態になると、ベルトコンベアに乗ったがごとく、必然的に発生してしまう被害なのか。ここに哲学の因果論の視点が要請されてくる。一つの標準的なやり方は、いわゆる「but for テスト」であろう。反事実的な仮定をして構成される条件文の説得性によって、原因指定の適切性を測るという手法である。私は、このテストをパスしうる原因候補を三つあげたい。1)津波震災、2)原発事故、3)避難行動、の三つである。そして私は、この三つに対して、どれが最も後の時点になっても予防可能であったかという視点、すなわち、法理学で言うところの「近因」の概念に似た視点を適用したい。そして、後の時点でも予防可能性が高かったという点で、無理な避難行動や避難行動の弊害を予防しなかったことに【原因】を求めたいと考える。かくして、原子力災害が発生したときに、放射線被曝だけに注意を集中させることは、かえって被害を拡大させてしまう、という重大な教訓を読み取りたい。